感染症疫学の専門家が伝える「新型コロナのいま」 〜寮生活を送る学生たちへのメッセージ 2021年1月
誰もが「よりよく生きる」ことを追求できる社会
健康実務家として「地域」と「ひと」と向き合う3つの工夫
はじめまして!塩見美抄と申します。
現在は、京都大学大学院・医学研究科・人間健康科学系専攻で准教授をしています。
元保健師として、また地域看護学を専門とする者として、常々「よりよく生きる」ということについて考え、研究や教育を行っています。
今回は皆さんとこの「よりよく生きる」というコトバの意味とアプローチについて、一緒に考えてみたいと思います。
「よりよく生きる」とは?
「よりよく生きる」とは、どういうことなのでしょうか。
あなたにとって、「よりよく生きる」とは、どんなイメージですか?
健康であること?夢を求めること?金持ちになること?
「よりよく生きる」という願いは、そのイメージに違いがあったとしても、
誰もが持っている “理想像” だと思います。
具体的に思い描く「理想像」は、ひとによって千差万別。まったく異なるイメージを持たれるわけです。
ひとによっては、その「私にとっての理想像」を考えたことがない人もおられることでしょう。
「よりよく生きる」とは、非常に多様で不明確なコトバですよね。
「よりよく生きる」ことに近い用語として、“well-being”があります。
well-beingは、WHOが示す健康の定義で「身体的、精神的、霊的、社会的にwell-beingな状態」とされています。「健康」というコトバとオーバーラップする概念です。
そうした中で米国の疾病管理センターCDC(Center for Disease Control and Prevention)は、「well-beingの一般化された定義はない」ということを前提とした上で、概ね合意されたものとして以下のように定義づけています。
「肯定的な感情や気分で、ネガティブな感情がなく、
人生に満足し、充実しており、前向きでいられる状態」
この定義を見る限り、well-beingとはとても“主観的”な意味付けをされているように感じられます。
well-beingとは
・“何らかの客観的条件が揃うこと”ではなく、
・“自分が主観的に人生を肯定できるかどうか” といった意味付けをされているように読み取れます。
さて、本題の「よりよく生きる」とはどういうことなのでしょうか。
この「より“よく”生きる」というコトバもwell-beingと同様に、
(一般的に納得可能かどうかはさておき、)
“他人と比較した何か”、あるいは“客観的な指標に基づく何か”とは関係なく
“自分にとって肯定できるかどうか” が重要なのだという風に、私は考えています。
つまり、お金持ちでなくても、疾病や障害を抱えていても、自分自身の肯定感があれば、「よりよく生きる」ことは誰にでも出来る!という風に言えるのではないでしょうか。
ちなみに、日本国憲法では「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されています。
その中で、他者に保障可能なのは客観的な条件に過ぎません。
私たちは、せっかく感情・想像・未来概念を持つ考える葦としての人間に生まれたのです。
自分なりに「よりよく生きる」ことを思い描き、主体的に求めても良いのではないでしょうか。
その権利は、一部の好条件下にある人だけでなく、
障害の有無や暮らす地域、年齢などに関係なく、だれもにあってよいはずだ!
私は、そう考えています。
「よりよく生きる」ことを諦める人々
私の想いとは裏腹に、「よりよく生きる」ことを描き求めることを辞めてしまった人々に出会うことがあります。
彼らの多くは「仕方がない」という言葉を用い、自己肯定しにくい状態を、抗えないものとして受け入れようとします。
例えば、“限界集落に暮らす人々”がそうでした。
昔の思い出は多く語る一方で、10年後どうありたいかを問われても黙り込み、「死んでるわ」との回答しかありませんでした。
よりよく生きる未来像を描けない人々が増えている
人生100年時代ですので、実際にはそう簡単に死ねないのですが、
[未来像]がほとんど描けていない、という事実がそこにはあるわけです。
例えば、土砂災害のリスクが高い地域に住まう方々もそうでした。
備えはしておらず、埋もれたらそれで仕方がないと言われる姿に、悲しさをおぼえました。
似たような姿は“限界集落”に限らず、“都市部の高齢者”であっても同じような声が聞かれました。
ご自身の「今」を否定し、与えられるままに「生を消化」する人が少なくありません。
健康に気を付けていても、金銭的なたくわえがあっても、主体的に「よりよく生きる」ことを自分自身でデザインすることを辞めた高齢者は、少なからず存在しているのが今の日本の現状なのだと、健康の実務家として私が感じていることなんです。
でも、わたしも含め、いつかはすべての人に確実に訪れる老年期の姿が、これで良いのでしょうか?
高齢者以外にも、疾病や障害を抱えた人、定職につけなかった人、婚姻関係がうまくいかなかった人など、望ましくない条件に遭遇した人は、時に「よりよく生きる」力を失い諦めようとします。
私は傲慢かもしれませんが、それが悔しくてならないのです。
彼らを諦めさせているのは、往々にして社会の価値観や生活環境によるところが大きい。
いわゆる社会的弱者にとって悪条件を強いてしまっているのだ感じています。
こうした悪条件を是正していく対策ももちろん重要だと思います。
それでもやはり避けられない外部要因が多い中では、悪条件に遭遇した人々が「よりよく生きる」力を取り戻す支援が必要ではないでしょうか。
そしていつかは、
誰もが主体的に「よりよく生きる」ことを描き求められる社会を
創造したいとは思いませんか。
もう一度「よりよく生きること」を求めてもらうために
こうした「よりよく生きること」を諦めてしまう、というテーマについて取り組んでおられる健康実務家の方々はとても多いと思います。
この寄稿の最後に、わたし自身が地域看護の実践と研究を通じて見出してきた「よりよく生きる」力を取り戻してもらうための「アプローチの方法」について、3つほど共有をさせていただければと思います。
ぜひみなさまにお読みいただき、参考にしていただく、あるいは追加してご意見などいただけるととても嬉しいです。
①生活体験を共にする
まず1つ目は、生活体験を共にすることです。
「共に暮らす」とまでは言いませんが、例えば買い物に一緒に行ってみる、農作業を手伝ってみる、家のお掃除を一緒にするなど、ほんの一部でも日常生活場面を共にしてみてください。
相談場面では見えないその人に内在された力に気づかせてもらえますし、相手の生活や価値観を理解することの助けに必ずなります。
そうやって、自分の目線や価値を超えて、相手の価値に近づけた時に初めて、その人が本当に大事にしたいものが見え、「よりよく生きる」姿や夢を描くことができるのです。
自分では未来像を描けなくなった人に対するからこそ、支援者であるあなたがまず代わりに描き、提案することが大事なのだと私は思っています。
②共に「笑い」「楽しむ」
2つ目に、一緒に笑い楽しむことです。
生活体験を共にする中でこれが出来れば最高ですが、できない場合は改めて設定した場でも構いません。
お祭り、食事会(コロナ禍で今は難しいですが)、ゲームなど、支援者の顔を一旦脱いで、本気で楽しんでみてください。
「よりよく生きる」という肯定的な感情は、笑いや楽しみといった肯定的経験から生み出されていくものです。
「よりよく生きる」ことを諦めた人々は、往々にして日々を楽しむことが出来ずにいます。そういった人には、一緒に楽しんでくれる人が必要です。
同じことなのに、「人と一緒」だと違ってよく見えた経験は誰しもありますよね。
そんな “肯定的経験” を共有してみる。
それが出来れば、互いの信頼感もぐっと近くなり、あなたを「よりよく生きる」伴走者として受け入れてくれる一歩になります。
③ ほんの小さな「出来る」をつくる
3つ目は、ほんの小さな「出来る」をつくることです。
ご本人にとって「本当はやりたかったこと」であればなお良いですが、
くれぐれも無理はせず成功を算段できる小さな事にしましょう。
「よりよく生きる」ことを諦めるに至る前には、大小様々な出来ないことの積み重ねがあったはずです。
出来なかった原因も様々でしょうが、中には当人さえも気づけない「本当は(ちょっとした工夫で)出来ること」が埋もれているものです。
それを見出して、“小さな成功体験”を積み上げながら、自らにとっての「よりよく生きる」を描き、前に進んでいけるように誘っていけたら良いと思います。
さいごに
前述した内容は、いずれも専門職のケアとは言い難いものかもしれません。
ですが、専門職とそうでない人、ケアする人とされる人の間には当然ながら価値や認識の違いがあり、その違いが「よりよく生きる」ことを諦めかけた人と向き合う上で、大きく分厚い壁となって立ちはだかります。
まずは、専門職である以前に、人間として向き合うことが大事なのだと言えます。
また、「よりよく生きること」の諦めは一つの防衛反応です。
相手の防衛を解こうとする限りにおいては、自分も専門職としての鎧を外す必要があるのです。
もちろん立場上できないことも存在するでしょうし、それは守ってください。大事なのは自分が知らず知らずに着ていた余分な鎧を脱ぐことです。
家庭訪問に行って、野菜の袋詰めをお手伝いしながら、お話を聞かせてもらう。
グランドゴルフを1回打たせてもらい、「下手だなぁ」と笑い合う。
そんな些細なことであれば、専門職としてのお仕事の範疇でできますよね。
そうやって関わる中で、少しずつ互いに理解し合い、その人なりの「よりよく生きる」姿を共に考えられる関係を構築することが大切なのです。
それはきっと、専門職としてのやりがいと満足感を感じることにもつながると、確信しています。
だれもが「よりよく生きる」ことを追求できる社会を、共に実現させましょう。
今回のお話
塩見 美抄
京都大学大学院医学研究科・人間健康科学専攻・准教授
看護学生時代に出会った保健師に魅せられ、政令市の保健師として勤務。
その後大学院へ進学し、地域看護学の教育・研究の道へ。
「保健師≒マイルドな社会活動家」という考えのもと、地域社会に潜む健康課題に向き合い、その解決のための活動を起こしていける保健師の育成、グッドプラクティスの創出、理論構築を目指している。